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【5月24日】

飯綱町の證念寺で聞法会(研修会)があり、信濃町・飯綱町の真宗大谷派寺院の門徒・住職(坊守)による聞法会がありました。

テーマ『真の真宗門徒たれ』に係るお話を岩田千佳夫師からいただきました。ジェノサイドの恐ろしさとは、人の死を数であらわすようなところ。人の死は、一人一人の名が呼ばれるべきというお話があり、ちょうどNHKの朝ドラ「らんまん」のあるシーンを想起しました。それは、植物を愛してやまない万太郎青年が、この世に雑草という草はない。草一つ一つに皆名がついている。もしも、まだ名のない草があるなら、わしがつける。わしは、そのためにおると言うシーン。愛情があるから名をつけ、名を呼ぶ。逆にいえば、名がある、名をよばれるとは、愛されているということなんだと。であれば、阿弥陀様が大悲をもって私の名を呼び続けてくださることへのお応えが「南無阿弥陀仏」なのではと感じました。

また、人間がこの世に生まれてくる因や縁についてのお話がありました。「生まれたことが責任をはたしたこと、責任にこたえたこと(安田理深師)」、「病気や交通禍は死の縁であって因ではない。生まれることが死の因である。(曽我量深師)」という言葉やどのような最期を迎えようと阿弥陀様が頭を下げて「ご苦労様でした」とおっしゃってくださるという言葉が心に残り、三世(前世(前生)・現世(現生)・後世(後生))のお話では、人は死んだら終わりというものではなく、愛され願われた存在として生き続けるという言葉が心に残りました。

お話の後の質疑応答で、ある門徒さんから、後世(後生)について思うことは、畑を草にしておくと、今でも親から叱られているような気になります。そうして、亡くなった親が生きているのだなと思わされています。という感想がありました。

改めて、私が生きていることを大事にするように、私は願われ照らされているということを感じさせていただけたのだと感謝の念が沸き起こりました。


〇写真は、本堂裏のヤギ用フェンスがクレマチス用フェンスとなり、クレマチスの丘となった本堂裏で遊ぶユキちゃんです。



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