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【4月18日】

  地域の真宗大谷派寺院門徒の育成員研修会があり、講師の宮尾秀範師が『「糸」の意図』と題してのお話がありました。「糸」とは、中島みゆき作詞・作曲で知られる歌の糸です。その歌詞から真宗の教えを解いていくことを通じて、歎異抄の心に触れるというアプローチです。

  なぜ めぐり逢うのかを

  私たちは なにも知らない

  いつ めぐり逢うのかを

  私たちは いつも知らない

    どこにいたの 生きていたの

    遠い空の下 ふたつの物語

  縦の糸はあなた 横の糸は私

  織りなす布は いつか誰かを

  暖めうるかもしれない

《中略》

  縦の糸はあなた 横の糸は私

  逢うべき糸に 出逢えることを

  人は 仕合せと呼びます  


  お話をお聞きして、私が感じたことは、ご縁のあり様は様々ですが、「お経」や教えを縦の糸に譬え、教えに出逢わせてくれた師や友を「あなた」に譬え、私の課題や悩みを横の糸に譬えて考えてみる。逢うべき糸に 出逢えることとは、仏教で対機説法という語がありますが、自身の悩みが縁となり人生観が変わるような教えとの出逢いということになります。宮尾先生は、歎異抄は織りなされた布なのだと読み取れると言われました。

  もう一つ、宗教的な救済について改めて考えさせられたことは、人が救われるという状況とは、普遍性すなわち「いつでも・どこでも・だれでも」が基本なのではという思い込みがありましたが、「いつか誰かを」「かもしれない」という不確実な状況から見えてくる希望の感覚も救いなのだということです。私が全てでもなく運命が全てでもない。人としての可塑性や人生の可能性の中に、生かされて生きる感覚や私のために説かれたと思えるような教えとの出逢いへの感謝が生まれるのではないでしようか。

  図らずもこのような思いに至りましたこと、これも「糸」の意図の内でしょうか。



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